ユングの生い立ち
個性的な理論を展開し、今なお語り継がれる「ユング」の心理学。
その背景には、どのような生涯があったのでしょうか。
カール・グフタス・ユングは、
スイス北部のトゥルガウ州ケスヴィルという小さな村に、
1875年7月26日に生まれました。
父親はプロテスタント教会の牧師で、言語学の博士の学位を持つ人物。
さらにその父親は、バーゼル大学の医学部教授で、
総長を務めたことのある人物であったといいますから、
かなりアカデミックな家系に育ったと言えます。
しかもこの祖父は、かの有名な文豪、
ゲーテの私生児だったという噂のある人物だったのだとか!
また、フリーメーソンという秘密結社の中心的メンバーだったという説もあり、
色々と謎の多い人物であったことが伺えます。
母方の家系にいたっては、
母・祖父母・従姉妹全員が霊能者という神秘的な家系!
宗教的・霊的な色彩の強い家系だったようです。
これらのことをふまえて考えれば、
ユングが超心理学やオカルトに興味を持つに至ったこともうなずけます。
彼の生涯は、最初から神秘的な色合いを帯びていたといっても
過言ではなさそうですよね。
思春期〜青年期のユング
11歳でギムナジウム(いわゆる中学・高校)に通い始めたユングは、
豊かな家庭で育った級友たちと比べて
自分自身は貧乏な牧師の息子であるという現実に悩みます。
一時期は、登校拒否をしたこともあったのだとか!
繊細な少年だったようですね。
しかし、その頃から、自分の中には
「冴えない学生」としての人格と、
「威厳に満ちた老賢者」のような人格の
2つの人格が存在していることを感じ始めます。
将来の道を決める際にもこの2つの人格の狭間で葛藤しますが、
最終的には祖父が教授を務めた
バーゼル大学の医学部に進学することを決めたのです。
大学時代は、級友との付き合いにおいても学業においても
非常に積極的な学生だったようですよ。
そんな中、ユングは、生涯をかけて研究に邁進することになる
「精神医学」の世界と出会います。
これは、「生物学的な分野に興味がある自分」と
「宗教や考古学に惹かれる自分」の2つが合流する分野。
彼にとっては、
「求め続けていた答えがココにあった!」
というほど衝撃的な出来事だったようです。
これが、研究者としての彼の生涯が幕開でした。
医師国家試験をトップで合格した彼は、精神病研究へ没頭していきます。
運命的な出会い
偉大な心理学者といっても、人は人。
みなさん、やはり気になるのは恋愛のことではないでしょうか(笑)?
ユングは、母親との関係の中から
女性に対する「不信感」を抱いていたようで、
青年期までは女性との接点がほとんどなかったようです。
しかし、21歳の時に母親の知り合いの家でエンマという女性に出会い、
「この人が将来結婚する相手だ」と確信したのだとか。
しかも、その6年後に本当に結婚してしまったんですから驚きです。
彼女は工場主の娘であり、
経済的に恵まれた環境に育った女性であったため、
ユングもかなりその恩恵を受けたようですよ。
このエンマさん、精神的にちょっと不安定な感のある夫とは正反対で、
静かで落ち着いた女性だったのだとか。
家計のきりもりはもちろんのこと、
夫の研究のサポートなどもできる女性だったので、
後に「共同研究者」としても名を残すことになります。
中年期のユング
もう一人、ユングの生涯を語る上で
決して忘れてはならない人物がいます。
それが、オーストリアの精神医学者ジークムント・フロイトです。
「夢」を心理学的な分析の対象とした人物として有名ですよね。
このフロイトは、ユングにとっては
「本当の意味で自分を理解してくれる初めての人」。
まるで父親のように慕っていたようです。
ところが、学問的な考え方の食い違いから、
決定的な関係断絶に至ってしまいます。
どうやらユングは、研究よりも個人の権威を重んずるフロイトに対して
不信感を持っていたようですね。
なんと、大胆にも、フロイトの理論を否定する内容の著書を発表し、
フロイトを怒らせてしまいます。
フロイトと決別した当時のユングは、ちょうど中年期の頃。
これまでの自分を振りかえっては
「これで良かったのだろうか」と悩み、
これから先を考えては「このままで良いのだろうか」と苦悩する…。
孤独感の中で悩み続けた彼は、次第に、
精神分裂病と関連深い「幻覚」を見るようになっていきます。
精神病について精力的に研究を続けてきた自分自身が精神病を
発病しそうになるなんて…皮肉なものですよね。
しかし、仕事と家庭の支えがあったおかげで内面的な崩壊は免れたと、
後に本人が振りかえっています。
ちょうど第一次世界大戦が勃発したのはちょうどこの頃。
ユングは、これまでの幻覚は、
自分自身が無意識に世界の危機を感じ取っていた結果であったことを
悟ったのだといいます。
ユングの晩年
その後も、自分自身の体験や患者とのやりとりを元に、
様々な理論を導き出していきます。
60歳を過ぎてからは、自分の手で作った石の塔にこもって執筆を続け、
数々の名著を残しています。
また、世界中の相手との文通やテレビの取材、弟子とのやりとりを通して、
自分の考えを世の中に伝えようと努力していたようですね。
そして、1955年には最愛の妻が逝去。
自身も1959年6月6日、
自宅で家族に囲まれてその波乱多き生涯の最期を迎えたそうです。