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フロイトとの衝撃的な出会い

ちょっとでも心理学をかじったことがある方なら、
ユングと言えば「フロイトとの決別」

というフレーズが浮かんでくる方も多いのではないでしょうか?
どちらも、心理学の分野に偉大な功績を残した人物。

知らない方はいないのではないかと思います。

 

しかし、この2人はどのようにして出会い、そしてなぜ決別に至ったのか?
詳しい経緯をご存知の方は少ないのではないでしょうか。

 

まずは、フロイトの紹介から始めましょう。

 

ジークムント・フロイトは、オーストリアの精神医学者。
精神分析学の創始者といわれる人物です。

有名な著書に『夢判断』がありますが、この中で彼は、
それまで単に「不可解なもの」として扱われてきた

「夢」というものが持つ意味を考察しています。

 

今でこそ、「夢にはその人の願望が現れる」といった説も
世の中に受け入れられていますが、

当時はその理論があまりに画期的過ぎて、
特異なものとしてあまり支持されていなかったようです。

 

しかし、ユングは、自身の治療経験とこの本の内容を照らし合わせ、
その理論の正しさに衝撃を受けたと言われています。

 

さっそく、自身の実験研究をフロイトに送り、
ここから2人の文通が始まったのです。

擬似的な親子関係

2人の初対面は1907年。
ウィーンのフロイト自宅の玄関で対面を果たした2人は、

それから13時間もの間ひたすら話し続けたといわれています。

 

ユングにとってフロイトは、
「自分を本当に理解してくれる初めての人」だったようですね。

思想や学問と言った面ではまったく頼りにならなかった父親に対する
失望感を抱えていきてきたわけですから、なおさらだったのでしょう。

まるで「本当の父親」のように慕っていたようです。
(この当時、すでにユングの父親は他界しています)

 

フロイトにとっても、ユングは
自分の理論を支持して世界に広めてくれる可能性をもった弟子。

また、ユングはその当時最も権威のある精神医学者の一人であった
オイゲン・ブロイラーの弟子でもありましたから、

自分の理論を世の中に認めてもらうためには何かと都合が良かったわけです。

 

息子のような感覚もあったのでしょうね。
なんと、ユングのことを「(精神分析の)皇太子」とまで

呼んでいたそうですから…2人の信頼の厚さが見て取れます。

 

しかし、2人の関係もそう長くは続きません。
フロイトが提唱する

性欲理論(心の問題の根本には必ず性的欲求が関係するという考え方)」
に対するユングの違和感と、

ユングが傾倒している「オカルティズム」に対するフロイトの否定などが
主な原因で、2人の距離は徐々に広がっていきます。

フロイトとの決別

2人は、アメリカでの講演旅行に招待されたり、
国際精神分析協会を設立したり…と、多忙な日々を送ります。

 

その一方、フロイトは
「ユングは自分の地位を奪うために自分の死を望んでいるのではないか」

という思いに駆られ、ユングもまた
「先生は自分の権威を守ることばかり考えている」

…と不信感を感じるようになっていきます。

 

まあ、この当時、ユングは
精神分析の学術雑誌の編集長にも就任していますから、

フロイトが焦る気持ちもわかります。

 

2人の溝が決定的になったのは、
1911年に出版された『リビドー変容と象徴』というユングの著書。

これは、何と、フロイトの性欲理論を真っ向から否定する内容だったのです。

 

フロイトの逆鱗に触れてしまったユングは、絶縁状を送り、
精神分析協会の会長も辞任、チューリッヒ大学医学部講師の職も辞して、

アカデミックな世界からは身を退くことになってしまったのです。

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