ユングが治療に求めていたもの
「宗教」というと、ともすれば
「怪しい」というイメージを抱かれてしまいがち。
日本人の場合、特にその傾向が強いのではないでしょうか?
広く世界に目を向ければ、
自分が信じる神の教えを貫くために
同じ民族同士が戦争している国も珍しくありません。
日本でそんなことが起こらないのは、
織田信長が比叡山を焼き打ちにして
宗教集団の武装を厳しく取り締まったからだという説もありますが…。
(実際、信長が現れる以前の日本では、
いわゆる宗教戦争に値する事件が起こっていたのです)
この説の是非は置いておいて、
「宗教」との付き合い方や距離感は国によって違うようです。
しかし、ユングが心理療法に求めていたものは、
ある意味では非常に宗教的なものだったのだとか。
ユングと同時代に活躍した宗教学者、
ルドルフ・オットーの言葉に非常に強い影響を受けていたようなんです。
キーワードは、「ヌーメン的なもの」
直訳すると「神霊的」であり、
ざっくりと説明すると
「人知を超えた神秘的な体験」を意味している言葉です。
ヌーメン的なものとは?
では、なぜユングは、
宗教学者、ルドルフ・オットーの言葉に強い影響を受けたのでしょう?
そもそも、ヌーメン的って具体的にはどのようなことなのでしょうか。
私たちの身近な生活の中で例を挙げるとするならば、
縁起でもないことですが
「死の宣告を受けた時」や「身内の死に接した時」、
逆に「新しい命の誕生を目の当たりにした時」、
または「大自然に抱かれて自分が自然の一部であることを実感した時」
…等を考えてみると理解しやすいと思います。
すなわち、
「死ぬ」ということや「生きる」ということについて、深く自問自答する体験。
それがヌーメン的体験です。
ユングによれば、このような体験を認め、
そして温かく見守ることが宗教の役目なのだとか。
そしてまた、心理療法においても、
症状の改善にはこの“宗教的な体験”が
非常に重要な意味を持っていると考えたのです。
心理療法の真の目的とは
人間、本当に思い悩んだ時というのは、
「自分には生きている価値なんてあるんだろうか」
「自分は何のために生まれてきたんだろう」
「このまま死んでしまったらどうなるだろうか」
…と、生と死の問題にまで突き詰めて考えてしまうものです。
少々極端な言い方をしてしまえば、心理的な問題の根源には
このような明確な答えの出ない問いがあるわけです。
そこで解決策が出ないとしても、
それでも私たちは生きていくしかないわけですよね?
その根源的な問題をどう受け入れて、
自分の中でどう折り合いをつけて前へ進んでいくか。
これを見守ることが宗教であり、
ある意味では心理療法であるとユングは考えました。
精神病や神経症の症状を取り除くことに力を注ぐのではなく、
むしろこの根源的な問題について一緒に考えていくことが、
思わぬ治療効果をもたらすことも少なくないのです。
確かに、不安や恐れの原因を辿っていけば、この
「なぜ生きているの?」
「どうやって生きていけば良いの?」
「どんな風に死んでいくの?」
…という問いに行きつくような気がします。
そうやって考えてみると、
人生につまづいた人が宗教にハマり込んでしまうのも
そうおかしな話ではないと思いませんか?