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ザビーナ・シュピールラインとは?

ユングとフロイトの決別に少なからず影響を与えたとされているのが、
「ザビーナ・シュピールライン」という女性です。

歴史に名を残す著名な2人の心理学者に影響を与えたとされる彼女。
一体、どんな女性だったのでしょうか?

 

ザビーナ・シュピールラインは、1885年、ロシア生まれ。
裕福なユダヤ人家庭の長女として生まれましたが、

少女時代に強度のヒステリーを発症し、
(泣いたり笑ったり叫んだりするという発作)

1904年にスイスのチューリッヒにある
ブルクヘルツリ精神病院に入院します。

 

翌年、退院した彼女はなんと医学を志し、チューリッヒ大学に入学!
そこで、精神分析による治療と研究に明け暮れていた

ユングと知り合います。

 

ユングの外来患者として治療を受けながら学生生活を続けていましたが、
二人は「治療者と患者」の一線を越えた関係へと発展…。

ユングはすでに妻子ある身分でしたから、
現代的な言葉で言うところの「泥沼」の状態へとハマり込んでいきます。

 

とはいえ、さすが女性はしたたか(笑)!
そんな状況でも勉強はしっかり頑張っていたようで、

1911年には『精神分裂病の一症例の心理学的意味内容』という論文で、
博士の学位を習得。(もちろん、指導していたのはユングです)

 

のちに、フロイトの精神分析協会の正規の会員となり、
「フロイト派の精神分析家の草分けの一人」としても知られています。

 

ベルリンに移った彼女は、ユダヤ人の医師と結婚。
1923年にロシアへ帰国し、

子どもを対象にした精神病院を設立しています。

 

ところが、精神分析の禁止や、
住んでいたロストフがナチスドイツの占領下に置かれるなど

憂き目に遭い、
1942年に57年で亡くなりました。

ユングとの関係は…

ザビーナ・シュピールラインとユングのスキャンダラスな関係が
世に知られるようになったきっかけは、

彼女が残していた日記が発見されたこと。
1977年、スイスのジュネーヴで、

彼女が1909年〜1912年にかけてつけていた日記と、
ユングやフロイトに宛てて書いた手紙類が見つかったのです。

 

学生時代、ユングとの道ならぬ恋に夢中になっていた
ザビーナ・シュピールライン。

彼女の日記には、治療者として自分を救ってくれたユングに対する
信頼と依存心、

そして1人の“女”としての葛藤がこまかに記されていました。
少女から女性へと変わっていくデリケートな時期、

自分を理解し、助けてくれた異性に対して特別な感情を抱くことは
珍しいことではないでしょう。

 

ザビーナ・シュピールラインは、師として、
そして男性として慕うユングの子供を切望し、

ユングの指導の元で書き上げた学位論文を“精神的な子ども”と考え、
「ジーグフリード」と名付けていたというエピソードも有名です。

 

二人の関係が破局したきっかけとなったのは、誰か(ユングの妻?)が
ザビーナ・シュピールラインの母親に送った手紙。

「娘がユングとの関係によって堕落するかもしれない」
…という警告の手紙を受け取った母親が慌ててチューリッヒに駆けつけ

ユングに面会を求めたと言われています。

 

オススメの映画

ちなみに、ユングとフロイトが決別した背景には、
このザビーナ・シュピールラインの存在が

少なからず影響しているようです。
事実、ザビーナ・シュピールラインは、フロイトに宛てて何度も

ユングに対する非難と面会を求める手紙を書いています。

 

この三者の複雑な関係について描かれているのが、
映画、『危険なメソッド』

精神医学の礎を築いたフロイトとユングの出会いから決別まで、
そして、そこにザビーナ・シュピールラインがどう関わっていたのか?

精神分析に興味を持つ人には一見の価値がある映画です◎

 

【映画の基本情報】
原題: A Dangerous Method

製作年: 2011年
製作国: イギリス・ドイツ・カナダ・スイス合作

配給: ブロードメディア・スタジオ
上映時間: 99分

 

【スタッフ】
監督: デビッド・クローネンバーグ

製作: ジェレミー・トーマス
脚本: クリストファー・ハンプトン

原作: ジョン・カー クリストファー・ハンプトン

 

【キャスト】
サビーナ・シュピールライン: キーラ・ナイトレイ

ジークムント・フロイト: ビゴ・モーテンセン
カール・グスタフ・ユング: マイケル・ファスベンダー

エマ・ユング: サラ・ガドン
オットー・グロス: バンサン・カッセル

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