ユングとニーチェの共通点
ユングの理論は、多くの心理学者や哲学者、
時には科学者の説と比較される対象になります。
中でも、ニーチェは、ユング関連本の常連客。
ユング(1875年7月26日 - 1961年6月6日)と
ニーチェ(1844年10月15日 - 1900年8月25日)、
年代的には、ニーチェのほうが30年ほど先輩なわけですが、
両者の思想には共通する部分が多いようです。
その根本になっているのは、その成育歴にあるのかもしれません。
両者とも、父親は牧師。
幼い頃から、良くも悪くも “キリスト教”という宗教の影響を
強く受けて育ってきたことが窺えます。
「三つ子の魂、百まで」
とよく言われるように、この共通点は
両者の思想を比較する上で非常に重要なポイントと言えるでしょう。
実際、ユングは、キリスト教に対して、そして牧師である父親に対して
強い不信感を抱いていたと言われています。
それが、のちに、“グノーシス”と呼ばれる異端派に惹きつけられる
一つの大きなきっかけになっていたことは想像に難くないでしょう。
ニーチェもまた、その著作『ツァラトゥストラはかく語りき』の中に
「神は死んだ」という有名なフレーズを残していますし、
「キリスト教に怪しい部分があれば
それを批判することをためらうべきではない」
という思想の持ち主だったようです。
キリスト教に対するスタンス
ニーチェは、キリスト教を盲信することに対して警鐘を鳴らした人物。
地球の周りを太陽が回っていると考えるよりも、
地球が太陽の周りを回っているという科学的思考のほうが
はるかに合理的じゃないか!と、
キリスト教にとらわれない新しい物事の見方を広めた哲学者です。
ニーチェの理論によれば、
キリスト教は人々に
「嘘をついてはいけない」「誠実であれ」と教えることによって、
皮肉なことに、
「神は人間がつくりあげたものである」
という真実を明らかにさせてしまったのだといいます。
この流れから、神の教えを盲信するのではなく
科学的・客観的・合理的な事実を信じる姿勢も生まれてきたのだとか。
さて、そんなニーチェの思想をよく表しているのが、
代表作である『ツァラトゥストラはかく語りき』。
山に籠って思索に耽り、町の人々に対して
「神は死んだ」と説いて回る主人公(ツァラトゥストラ)は、
ユングの言う「老賢人(オールドワイズマン)」のイメージそのもの!
また、永劫回帰の象徴として登場する蛇(ウロボロスの蛇)も
“集合的無意識”の要素を内包しています。
ただ、ニーチェ哲学について
表面的な知識しか持たない一般の人々の間では
「ニーチェ=神の存在を否定した人」というイメージかもしれませんが、
実は、ニーチェこそ誰よりも“神”の存在を求めて止まなかった人。
行燈を持って彷徨うツァラトゥストラには、
「神が死んだ」ことをまだ受け入れられず、
必死に神を探し求める人間の姿が重ねられています。
ニーチェ自身も神を探し求め、
そして、ついに見つけることが出来なかったのです。
そしてユングもまた、その著作の中で、
「ほとんどの人は、道徳(=客観)の存在について
深く悩んだことは無いだろう。
しかし、宗教・哲学・教育・精神医療などに関わる人々の一部は、
それについて非常に深く考える。
そして何とかして、
人類全体での正解である“神”を把握したいと試みるのだ」
…という趣旨のことを語っています。
おそらくその中には、ニーチェも含まれているのでしょう。
“生き方”に対する考え方が似ている?
これは筆者の個人的な印象ですが、ニーチェとユングは
“生き方”に対するスタンスが似ているように感じます。
両者とも、試練を乗り越えることで得られるものを
非常に重要視していますよね。
しかも、その考え方が非常に分かりやすい!
他の心理学者や哲学者の思想(著作)は、
「どう生きるか」とか「どうやって自分の人生を充実させるか」
といったごくシンプルな問いに対しては
意外と、分かりやすい答えをくれないものなんです。
世の中、「自分とは」という根源的な疑問や“生き方”に悩んで
心理学や哲学の書籍を手に取る方が多いと思うのですが…
納得のいく答えをくれる思想家って少ないんです。
そういう意味では、ユングもニーチェも、
「乗り越えることで人生は充実する」
という思想の持ち主。
例えば、ジェット・コースターって、
乗る前は怖くて躊躇したりしますが
実際に乗ってしまえば楽しいし、降りた後、
なんともいえない達成感がありますよね?
人生もそれと同じで、困難や試練を乗り越えてこそ喜びを味わえる…
そんな風に考えるのが、ニーチェとユングの思想の基本なんです。
要は、
「ぬるいことばっか言って生きてても、
自分らしくなんて生きられないぞ」
「人生、常に挑戦あるのみ!」
という、ちょっと手厳しい思想なわけですよね(苦笑)